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探訪! 名所・旧跡

掛川市

掛川城御殿

掛川城御殿

御殿は江戸時代後期の建物で、公的式典の場、城主の公邸、藩の役所としての機能を持った施設です。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数少ない貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。
 御殿は、儀式・公式対面などの藩の公式式典の場、藩主の公邸、藩内の政務を司る役所という三つの機能を合わせ持った施設です。掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては京都二条城など、全国でも数カ所しかない貴重な建築物です。
 現存する御殿は嘉永7年(1854年)の大地震後再建されたもので、昭和55年(1980)1月26日、国の重要文化財に指定されました。

大日本報徳社

大日本報徳社

道徳と経済の調和実行を説き、農民の救済を図った二宮尊徳(金次郎)の教えを全国に広める『報徳運動』の本社です。
二宮尊徳が唱えた報徳思想の普及・実践をめざして報徳社は全国に生れました。
明治初期、全国に広まった報徳運動の中心機関として、大日本報徳社がこの地に設立され、今日まで継承されています。

加茂花菖蒲園

加茂花菖蒲園

桃山時代より続く名主である加茂家は、白壁、土蔵、長屋門をめぐらせた古い庄屋屋敷です。加茂家の屋敷の門前には、全国的にも有名な花菖蒲園が広がっています。門前に広がる10,000平方メートルの広大な園内には1,500種類以上もの花菖蒲が栽培され、毎年5月上旬から6月下旬頃にかけ、見事な花が見られます。

仁藤の大獅子

仁藤の大獅子

日本一の大きさを誇る仁藤の大獅子は、耳の長さ1.2m、目玉の大きさ60cm、総重量300kgもあります。
掛川では三年に一度大祭りが開催され、『仁藤の大獅子』は大祭の最大の呼びものです。
巨大な獅子頭を数人で持ち上げて、その後方の母衣に竹の棒を持った人々が入り、母衣を突き上げながら乱舞します。この獅子は幕末に天然寺の帆誉上人が伊勢・志摩より導入したとの伝承があります。 市内仁藤町には、大獅子展示場が設けられています。

掛川城

掛川城

掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川義忠が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈泰熈に命じて築城させたのがはじまりです。戦国時代には”内助の功”の話で有名な山内一豊が10年間城主となって、戦乱で傷んだ城の大修復や城下の整備を行うとともに、天守閣を建立しました。江戸時代には、江戸城を築いた太田道灌の子孫、太田家など11家26代の居城として栄え、天守閣の美しさは『東海の名城』とうたわれました。そして、今日の掛川城は、平成6年4月、当時の美しさをそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。掛川市を眺望する天守台は、海抜56m。緑に囲まれた美しい街並みが見渡せます。

城を守った霧吹井戸
城を守った霧吹井戸

東海を制す重要な拠点だった掛川城には、さまざまな言い伝えが残っています。霧吹井戸の伝説もそのひとつです。永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。以来、掛川城は、『雲霧城』ともよばれるようになりました。この霧吹井戸は、天主台の脇に現存し、深さは日本第3位の45mあります。

大手門
大手門

天守閣から東南に約250m、三光稲荷神社の南側に復元された掛川城大手門は、木造日本かわらぶき入り母屋づくり。白壁で板ひさしが付けられ、棟上にはシャチ瓦が飾られた豪華で勇壮な門です。
 発掘調査により大手門の根固め石が発見されました。平成7年6月、資料等を参考にして、掛川城大手門を復元。門内には発掘された根固め石一基が保存展示されています。
 天守閣に続いて復元された大手門は、間口12.7m、奥行5.4m、高さ11.6m。桜門造りの本格的な櫓門で、掛川城の表玄関にふさわしく重厚で勇壮な趣を醸し出しております。

夜泣き石

夜泣き石

『伝説小夜の中山夜泣き石』
 その昔、小夜の中山に住むお石という女が菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。

 その時お石は懐妊していたので傷口より子供が生れ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うことはなく、その石を『夜泣き石』と言った。

 傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研に来たおり刃こぼれがあるので聞いたところ、『去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ』と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。

 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
文化元年滝沢馬琴の『石言遺響』より

久延寺境内の五葉松
久延寺境内の五葉松

夜泣き石伝説に深い関わりを持つ久延寺は、当時の掛川城主だった山内一豊が徳川家康をもてなした寺としても有名です。境内には家康お手植えと言われている五葉松があり、秋には観月会も催されます。

吉岡彌生記念館

吉岡彌生記念館 吉岡彌生記念館

明治の時代当時としては稀な女性医師として身を立て、東京女医学校を創立した吉岡彌生は、明治4年(1781年)大東町土方で生まれました。
明治9年嶺小学校入学(現土方小学校)。卒業後和裁を習うが、当時の女性としての生き方に疑問を持ち「女学雑誌」から医学に進む引き金となる記事を見つけ女医になる決心をする。
21才の時医術開業試験の合格。
24才のとき学んでいた至誠学院の吉岡荒太院長と結婚し至誠医院を開く。
その後女医をめざす女子学生の為「東京女医学校」を創設。その後学校は順調に成長し、新制大学の「東京女子医科大学」が昭和26年に誕生した。翌年には学長となった。彼女の生まれ故郷の大東町に平成10年東京女子医大の4年制看護学部が開学。吉岡彌生記念館も同年開館されました。

吉岡彌生の偉業を顕彰するために設立。地域への医学・看護の精神の普及に務め、人々の「健康」への関心を高め、コミュニティの土壌を培っていくのが目的です。

高天神城跡

高天神城をめぐる戦い
高天神城をめぐる戦い

この城を巡る戦いは元亀2年(1571)総勢二万の兵を率いた武田信玄の来攻により幕が切って落とされた。当時徳川家に属していた城主小笠原与八郎はこれを撃退し、難攻不落の城としてその名を高めていった。
 この戦いから3年後の天正2年(1574)父信玄の志を継いだ勝頼が高天神に来攻、小笠原与八郎長忠二千の兵を以って籠城決戦するも力尽きて開城。勝頼の軍門に下った。翌年、長篠の戦いに大敗した勝頼は、高天神を最後の砦とし兵糧を搬入、城の防御を強化していった。
 一方、徳川家康は高天神を奪還すべくその周囲に六つの攻撃用砦を築き、兵糧攻めによる包囲作戦を計画。天正8年(1580)城内への攻撃を始めた。
 家康の兵糧攻めにあい、糧道を断たれた城代岡部真幸は、城を枕に全員討ち死の決意を固め、天正9年3月22日、決死総攻撃を前に水盃を汲み交わしたといわれている。総勢八百騎の城兵は徳川陣内に一斉に切って出て、華々しく玉砕していった。

千人塚
千人塚

天正9年3月徳川勢の攻撃により高天神城が落城した際に、城とともに華々しく玉砕した武田方の約800人を葬った塚。
土地の人々はこれを千人塚と呼ぶ。小笠橋のたもとにある

石牢址
石牢址

天正2年落城の時、勝頼に降参しなかったために軍監大河内源三郎正局が閉じ込められた石牢。天正9年再び高天神城が家康の手に落ち救出されるまで、実に8年間をこの石牢で過ごした。家康は源三郎を忠義の範として評した。

かな井戸
かな井戸

天正2年合戦の中、飲料水乏しくここに深井戸を掘って露命を繋ぎ、また勝頼率いる武田勢の猛進を仕切りを設けて必死の防戦に努めた。当時城が落ちるとき鶴が舞い上がったという伝説がある。

八坂神社

八坂神社

創建は応徳2年(1085年)。毎年ここにおいて祇園祭が行なわれます。
祭礼は本社と旧神社のあった青谷との間で神興の渡御の行事を中心として行われます。

中八坂神社祇園祭 -壮厳で賑やかな神輿行列が行く-
中八坂神社祇園祭 -壮厳で賑やかな神輿行列が行く-

八坂神社で毎年10月の第一土・日曜日に行なわれる祇園祭の祇園囃子と祭礼行事は県の無形民俗文化財の指定を受けその価値は高く評価されています。
本祭りには山車が神輿の行列について本社へ向かいます。先頭には先獅子の舞い、天狗の露払い、笛、太鼓が続きます。今から1100年前疫病退散を祈願した祇園御霊会が祇園祭の起源です。祭礼は京都八坂神社の祇園祭をほとんどそのまま伝承。いにしえの風俗を今に見ることができる貴重な祭礼です。

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