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探訪! 名所・旧跡

牧之原市

勝間田城跡

勝間田城跡 勝間田城跡

勝間田氏は、この地方を本拠地にする豪族で勝間田平三郎成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は『夫木(ふぼく)和歌集』を編纂しています。
 元弘の乱(1331)には、河内(現在の大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録にみられます。
 室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1399年)や永享の乱(1439年)に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に1476年(文明8年)ついに落城、一族は四散しました。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられています。
応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は中世の代表的山城で、牧の原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っています。文明八年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たりませんが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められます。

龍門山石雲院

龍門山石雲院

曹洞宗龍門山石雲院は康正元年(1455年)10月17日、崇芝性岱禅師によって開かれた寺です。石雲院開山にあたり勝間田城主が寺領を寄進、以来、今川、武田、徳川の庇護を受け御朱印地百五十三石を拝領するに至ったという越格の寺です。
崇芝性岱禅師には優れた弟子が七人あり、これを石雲院七哲と言います。全国に800か寺を超える末寺を数える古刹です。
縁日
高尾まつり(開山忌大法要)11月26日
春まつり(七福神例大祭)4月第一日曜日

石雲院『龍門の滝』彫刻
縄文時代から続く旧中川根の歴史・茶史を、貴重な出土品

石雲院本堂の玄関両袖にはめ込まれた『龍門の滝』彫刻は、郷土の画人(現在の牧之原市出身)平井顕斎が下絵を書き、信州上諏訪を本拠地とした宮大工立川一門の立川庵雪曲がノミをふるい彫り上げたものです。この写実的な彫刻は、石雲院が三回目の火災で焼失した後、本堂再建(天保14年)に際し彫られたものです。
立川一門は、和四郎豊棟を初代とする宮大工の一派で、特に装飾彫刻に秀で、静岡浅間神社や三河豊川稲荷などを造営したことでも知られています。

東光寺の長藤

東光寺の長藤

この長藤は、東光寺の住職河内祥山師が、大正4年入山記念に磐田市豊田町行興寺の『熊野(ゆや)の長藤』の一枝を境内の山藤に接ぎ木したもので、同師の愛情により大樹に成長しました。
師亡き後は、地元の人達が長藤保存会を結成し、地域ぐるみで大切に育てており、町天然記念物にも指定されています。
4月下旬からの開花時には、樹齢80年、20メートル四方に広がった藤棚に、2万余の薄紫の花が1メートル以上にまで咲きしだれ、4月29日には藤まつりが開催されます。

子生れ石(大興寺)

子生れ石(大興寺) 子生れ石(大興寺) 子生れ石(大興寺)

龍門山大興寺は曹洞宗大本山総持寺の御直末寺院で、駿遠二州にわたって末寺七十余ケ寺を有する東海の名刹で、今から六百年前に大本山第七代貫主大徹宗令禅師によって開山されました。
この寺は開山以来、代々住職の往生直後に岩中より、まゆ形の石が生れるという摩訶不思議な現象があらわれるそうです。
大徹禅師は仏の道を説くかたわら石に関する学識も深く『那須の殺生石の謎を解いた名僧』として語り伝えられています。
人徳の高かった大徹禅師は九十余歳の高齢で多くの門弟に見守られ、静かに大往生をとげようとしていた時、惜しまれて逝く大徹和尚は、『わしの身代わりとして裏山より石が生れるであろう。』と予言したそうです。事実、往生直後、岩中より、まゆ形の無縫石が生まれ落ちたそうです。そして弟子達はこの石を大徹和尚の身代わりとして墓石にしました。以降、代々の住職も無縫石の落下を予言して大往生しましたが、その通りに落下し、現在に至る二十九代続いているそうです。
大きさは80cm前後、重さは100kg位で多少の大小がありますが、これは住職の徳望いかんによって、それぞれ異なっているそうです。
この石が固い砂岩の中から、どうして這い出してくるのか、その道の専門家も何回か取材しましたが、いまだ謎のままです。
この無縫石は『子生れ石』とも名づけられていますが、代々の住職が長寿であったので、『長寿の石』として、また子供が生れるように出てくるところから『安産の石』とも言われ、ひょうたんに似ていることから縁起のよい石と信仰を集めています。

根上り松

根上り松

別名二階松ともいわれ、今あるものは二本です。風食により、根が露呈したもので、一説に宝永4年(1707)の大津波の時、根元の砂が波にさらわれて、根が地上に出たとも伝えられています。
大きいほうの松の根元は地上より3メートルもの高さになっています。
このように根が地上に出ても、樹勢は衰えないというクロマツの特色がよくあらわされています。
昭和29年1月30日静岡県指定文化財(天然記念物)に指定されています。

大鐘家

アプト式鉄道 アプト式鉄道 アプト式鉄道

大鐘家の祖先は古く、足利時代中期の建徳年代(1511年)越前の国丸岡(現在の福井県丸岡町)の出身であります。そして、大鐘家七代目大鐘藤八郎貞綱は、越前北の庄の武将柴田勝家の養子柴田勝豊の城代家老として仕える。(天正8年)。その後、勝豊の病死により、柴田勝家を裏切る(不仲)。
そして、天正11年(1584年)の冬、豊臣秀吉の重臣として仕える。この年、柴田方と豊臣方との間に戦が始まる。賤ヶ岳合戦である。藤八郎も豊臣秀吉側として、五百の勢を従え戦った。秀吉軍の勝利となったが、豊臣秀吉の重臣加藤肥後の守清正にきらわれて、慶長2年(1597年)丸岡をすて、遠州の地、静岡県牧之原市(旧相良町)の地に移住しました。
江戸時代初期より江戸時代中期頃まで旗本であり江戸屋敷を持っており徳川将軍に仕えておりました。そして、この大型屋敷を建築しました。
昔は『大鐘館(やかた)』と云う大鐘家は、昭和48年6月2日付にて、国の重要文化財として指定されました。民家建築としては、この地方最古の建造物です。重要文化財に指定されたのは、主屋と長屋門の二棟です。長屋門の建築は江戸時代の中期の安永時代です。(棟札が出る。)
大鐘家は、江戸時代中期の元禄時代より江戸時代末期まで長い間、この地方の大庄屋となり、また豪農として権力をふるいました。大庄屋は、昔は、経済面と法律の二つの職を持っておりました。昔は、大鐘家には与力が勤めておりました。
昔の大鐘家は三千石以上の格式を持っておりました。主屋内の柱と梁は江戸時代初期の様式であり、ほとんど手斧けずりです。太い梁と太い男大黒(おだいこく)と女大黒(めだいこく)の二本が大鐘家をささえております。
また、昔大勢の人々に食べさせた大カマドもあります。そして、現在に至っております。

相良油田

相良油田

相良油田は太平洋岸唯一の産油地です。その歴史は明治5年(1872年)2月、徳川家旗本村上正局(まさちか)が海老江(えびえ)で石油を発見したことから始まります。次いで日本の石油王・石坂周造が翌年明治6年(1873年)5月、菅ヶ谷に開坑、採油が始まりました。最初は手掘りにより掘削されましたが、この年の10月には米国製の綱堀り機により日本で最初の機械掘りが行われました。手掘り井戸の深さは、約100mから180mで、最深の井戸は255mにも及びました。
この採油は日本石油株式会社によって行われ、明治7年(1874年)には、わが国で最初の機械堀りが行われました。
最盛期(明治17年頃)には、年間721キロリットル(ドラム缶3,600本位)が産出され、井戸数は240坑で約600人が働いていました。明治から昭和にかけて約80年間、相良の一大事業として広く知られましたが、徐々に衰退し昭和30年頃すべての事業を閉じました。
相良油田の原油はガソリンや灯油分を多く含んだ極めて軽質な原油で、世界的にも希にみる良質な原油です。
今のヤグラは昭和25年に開坑された機械堀井で、深さ310m、相良油田最後の石油坑です。
相良油田は昭和55年11月28日に静岡県指定文化財(天然記念物)に指定されています。

油田の里公園

油田の里公園

油田の里公園は、この相良油田を多くの人に楽しみながら知ってもらおうと造られました。公園の面積は約2.8ヘクタール、平成5年から工事が始められました。公園内には油田資料館や手掘り小屋、芝生広場やバーベキュー広場などが設けられています。

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